訪日外国人(インバウンド)の方の数は年々増加していき、日本にいながらも外国の言葉に触れる機会も増えてきました。注意書きやメニューには、英語・韓国語・中国語が当たり前のように表記されています。
さて、そんな現在の日本ですが、昔から外国の言葉が当たり前のように飛び交う街がありました。
中華街です。今、3つの都市にこの街はありますが、なぜできたのか、気になったので調べてみました!
【3つの中華街】
まず、3つの都市のご紹介です。
・長崎
・神戸
・横浜
の三都市にそれぞれ中華街はあります。
三都市とも、初めから中国人が街を形成していったわけではありませんでした。日本と諸外国の交流の歴史の中で、徐々に形を変え、中華街として成り立っていきました。その成り立ちの軌跡をひもといていきたいと思います。
【成り立ちの軌跡】
歴史的な長さで言えば、一番古くから外国とのつながりをもっていたのは長崎です。
江戸時代、日本が鎖国期間中に諸外国との交易を許されていたのが長崎の出島でした。オランダ人や中国人が住む居留地が設けられ、外国との関わりの強い長崎という街ができあがっていきました。
本格的に日本が外国と関わりをもつようになったのは、開国。黒船の来航からです。
日米修好通商条約の締結により、横浜・長崎・函館の三港が開港しました。その後、兵庫港(神戸)も開港されました。
開港された港の周辺には来日してくる外国人のための外国人居留地が設けられました。この居住地が横浜の山手、神戸の北野、長崎のグラバー邸周辺です。
しかし、いきなり開国となり、日本人は貿易の知識も言語もなにも準備できないままでした。
そこで活躍したのが、欧米人とともにやってきた華僑(中国人)です。
彼らは外国の生活文化に触れていただけでなく、貿易の仕組みまで理解していました。そして、何よりも大きいのは日本と同じ漢字を使用していたことで、日本と諸外国の仲介をすることができたのです。そのため、華僑も外国人居留地と近いところで居住をするようになりました。
長崎は出島での貿易の歴史と日米修好通商条約での開港の歴史が絡み合っているので、少し神戸・横浜とは違う部分もありますが、おおむね同じ流れで中国人が居住を開始しました。
【現在の中華街へ】
しかし、いまのような中華街の形となったのは最近の話です。
中国出身者が得意としていた職業に「料理・理髪・裁縫」がありました。政府はこの3つの営業許可を与えていたといわれていますが、この3つの職業のお店が多く存在していました。時代とともに中華料理が認知されるようになり、今のようなグルメタウンになっていったのです。
また、今でこそ中華料理や中国系のものを取り扱うお店ばかりですが、昔は日本の食材を扱う店も日本のお店もありました。中華街は日本と中国の共生の軌跡なのです。
【おわりに】
いかがでしたか?
ぜひ、中華街に行く際にはそんな中国と日本の歴史を思い浮かべながらおいしい中国グルメを楽しんでください🌜
それぞれの中華街の近くにはかつての外国人居住地が昔の趣もそのままに西洋風の家も立ち並んでいます。あわせてご堪能ください!